建築は、ここにないものを描くことから始まる。その時「何も刻まれていない石板」、タブララサから始める方法がある。つまり、いったん、まっさらな白紙を前提として、ある理想に向けて、思考を進め、実現を目指す。これは、建築がその内部における論理を積み重ねやすい、という意味において、建築の自律性を高める方向にはたらく。一方で、そこに描かれる建築の周辺について、入念な調査を重ね、その関係を白紙の前提として、建築を構成することがある。これは、建築がその外部における論理を汲み取りやすいという意味において、建築の他律性を高める方向にはたらく。もちろん、現実にはこうした単純な二項対立では語れないことがほとんどなのだから、そういった軸を置くこともできる、といった程度のはなし。けれども、いずれの場合においても、つい軸から見落としてしまうと感じるのは、白紙じたい、について。たとえば、その大きさや形、表面の凹凸といった、白紙そのものの様子や、はたしてそれが建築にどんな影響を与えているのか、そういったことについて、検証することもできる。これは先に述べた、白紙か文脈か、自律的か他律的か、というはなしではなく、そもそもそれは本当に白紙か、といった疑問である。
白紙といっても、ある特定の敷地を指して言うこともあれば、たとえば海の上や瓦礫の山、砂漠などもその対象になる。これらの対象は、ある空虚な場所という意味において白紙的である。また、それらを構成する単位、海水や瓦礫や砂、はそのままでは建材利用ができず、現地で材料調達ができないという意味においても白紙的である。つまり、空間的にも材料的にも白紙、ということになる。しかし性質が異なるにも関わらず、同一とくくられてきた、個々の白紙性に向き合い、その文脈を拾い上げるための表記と、実現のための建設の方法を模索することもできるのではないか。そのための表記と建設の関係を考えると、いくつかの疑問にたどり着く。表記の網は十分に情報を汲み取っているか、その情報を適切に調理するだけの建設の手段を持ち合わせているか。そうすることで、白紙(のように見えるもの)を、素材の海として捉えることはできないか。それはきっと、タブララサじたいを具体的な対象として、認識することになるはずである。建築を始めるとき、白紙か文脈か、というはなしの前に、白紙の文脈そのものに目を向ける。
砂漠を構成する主な要素は砂であるが、ウッデン及びウェントワースの区分法によると、直径が 0.0625mm から 2mm までのばらばらの粒状になっているかたい物質であればなんでも含まれる。これは人間の髪の毛よりも少し大きい。材料的には砂粒の成分の 70% を占めるのは石英である。別名をシリカ、化学式は SiO2 、二酸化ケイ素という物質の一つの形態である。また、移動し続ける砂は、堆積物が隆起しでできた山が浸食され、運ばれる間に削られ、たどりついた姿である。この砂は再び堆積し、その下に潜っては隆起し、浸食され、砂に戻ることを繰り返すわけだが、この循環周期は2億年といわれる。この悠久の時を流れる砂の形態は、砂漠においては、重力と風力といった、それぞれ垂直、水平の二つの力、もしくはその組み合わせが支配的な要因となる。これら砂の材料的、造型的特徴を計算機の力を借りて分析、表記することで、砂漠の文脈として汲み上げ、その建設の可能性を探る。これまでにない表記と建設を横断しながら実践することは、砂漠をそのまま砂漠として、つまり白紙ではなく文脈を持った対象として認識し、建築の一歩目を問い直すきっかけになる。地表面の1/3を占めつつも、その形状から産業利用の難しい、砂漠の砂の表記と建設の方法について考えることは、いわゆる土着的な行為にとどまらない、現代的な切実さを孕むはずである。
砂漠の文脈を扱うとき、数理モデルを用いたシミュレーションと、センシングを用いたフィードバックシステムを組み合わせ、砂の挙動の表記とそれに適応する建設を横断的に実践した。具体的には、ある地点の重力と風力による砂の堆積の様子をシミュレートしながら、任意の形状に堆積するための壁(ここではサンドキャッチャーと呼ぶ)をリバースエンジニアリング的に設計する。そうして得られた砂丘を常に3dスキャニングしながら、砂丘にコンクリートを吹き付け、ある厚みをもった表面として固める。最後に構造体から砂を吹き出すことで、中に空間を作り出す。こうした手続きを絶え間なく繰り返すことで、これまで空間的にも材料的にも白紙であった、砂漠の文脈を読み、形を汲み上げる。砂漠における白紙を把握する手法は、精密な機械と計算機によって行われているという意味において、再現性が高い。けれども、同時に、その建設において、砂の上にコンクリートを吹き付けるという、非常に場当たり的で局所的な行為積み重ねとして全体性が現れるという意味においては、一回性を実現している。再現性と一回性の両立は、その場その場に現れる白紙の文脈を、土着的言語でありつつも、人間の土地を構成する共通言語の一端に押し上げる。
これらの手法は一見すると、そこにある世界をとても具象的に扱うようにみえるけれど、その過程における抽象の度合いは、同じように小さくなるわけではなく、翻って、大きくなる。たとえば、砂漠の表面をスキャンする。その時現れるのは、大きさを持たない点の集まりで、座標と色のみの物理法則の存在しない世界。その点と点を、それぞれに属性を与えたりしながら、星座のようにつなぎ合わせていくことで、大きな砂漠を表記する。とことんまで、抽象の度合いを高め、大きさの無い点として表記をしたとたん、翻って、大きな砂漠それ”じたい”としか言いようのないものが認識される。抽象の度合いを高めると、その対象もおなじように抽象化されるのでなく、その理解や認識は、具象的になっていく(もちろん、そこで行きつくのは、表記の不可能性なのだけど)。それは、たとえば、建築のための表現として用いられてきた、洞窟”のような”とか、砂丘”のような”といった比喩から、洞窟”じたい”、砂丘”じたい”といった、それ”じたい”を扱う態度につながる。そこでは、これまで建築的対象として把握することのできなかった事物を表記し、独自の建設方法によってそれを実現する手法が試される。抽象と具象のキャリブレーションをすることで、表記と建設の距離が極限まで近づいてはじめて、まだここにない建築を、いまここの世界から描き始めることができる。そのようにして知覚する世界には、タブララサなど存在しないのではないだろうか。発見されうる世界へのまなざしと、構築への意志の衝突点に、白紙が形になるときを見る。
*Antoine de Saint-Exupéry, "Terre des hommes" 1943