1.はじめに
本研究は現状変更が許可制になった国宝保存法のもとに行われた修理において、当初の材料や形式がどのように保持されたかを考察したものである。当時の修理の技法や技術の特徴、併せて西洋技術がどのように導入されて使用されたのかを考察する。初期の西洋技術が修理技術として事例分析をもとに述べられたものはなく、また文化財修理においても修理理念の形成について、法隆寺や東大寺など代表的な事例を取り上げたものはあるが、それ以外の記録がわずかな修理内容を検証したものはない。 研究対象は京都府、滋賀県、奈良県の三府県に絞り、修理前後の保存図を比較して、それぞれの修理内容を検証する。また詳細な記録が少ないため、現状変更の記録と照らし合わせて考察する。対象とした建造物の件数と年代の内訳は、京都府40件(古代3/中世18/近世19)、滋賀県23件(古代0/中世17/近世6)、奈良県33件(古代3/中世27/近世3)である。
2.修理の実態と現状変更
現状変更の内容から、①修理部分によって現状変更の許可を得ているか否かの違いがあること、②現状変更の許可を得ていても復原の根拠が明らかでない場合もあること、の2点が明らかになった。つまり現状変更の基準が明確には定められていなかったことが指摘できる。 修理の実態を見てみると、屋根では材料と形態の変更ともに復原を目的に修理されていたことが三府県で共通していたが、意匠面ではその根拠が明らかにされていない場合にも復原が行われていた。また意匠面でも棟両端の反りを増すことが共通していたが、棟の補強方法には違いが見られた。京都府では近世の技術と考えられる棟芯材を設けて、棟積みの補強を行う傾向があり、滋賀県でも昭和8年の修理までは全ての事例で棟芯材が用いられていたが、奈良県ではみられなかった(表1)。 小屋組では三府県ともに、母屋を丸材から角材に取替え、角材でも屋根勾配に沿っていたものを垂直に直し、母屋の本数を調整して間隔を均等にするなど構造面での是正が図られていた(図1-6)。しかし京都府の近世建築の修理では母屋の取替も半数であり、本数や間隔の変化も1割程度でしかみられず、梁も7割で取替えられていなかったため、近世建築の構造の大幅な改変は不要と判断されたと推測できる。また小屋組の改変の中でも特に軒先の荷重を支える工夫に特徴がみられた。桔木を太く長いものに替え、桔木を支える土居桁も成の高いものに替えることで、軒の荷重を支えた。さらに軒先に新たに鼻母屋を設け、軒先の納まりも変えることで、軒廻りを強固な構造にした。京都府では修理前から近世の技術によって軒先に桔木吊金物が用いられていたため、既に強固なつくりであり軒先の改変も少ないが、奈良県ではほとんどの事例で軒の納まりが変更された。滋賀県では9割の事例で、部材の納まりは変更せずに、桔木と茅負をアングルで緊結することで、接合部を強化していた(図15)。 床組について、京都府では構造の改変が少ないが、滋賀県と奈良県では構造の改変や根太・床束の間隔の変更がほぼ全ての事例でみられたため、建立年代による構造の影響だと考えられる。一方で基礎の補強は三府県で共通しており、確認できた全ての事例で割栗石などによる地業、コンクリート基礎、土台の変更が行われていた。しかしながら、見えない部分である小屋組と基礎の変更については現状変更の対象ではない一方で、見える部分の軒廻りと基壇の変更は現状変更の対象に含まれていた。